箱根塔ノ沢温泉 福住楼 (エピソード -> 「美人伝」より)

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長谷川時雨著「美人伝」より 福住楼の女将 


 柳橋伊勢喜の抱え妓小浜を書き出すと、背景は夕汐のたかい大川端をおくりの船宿の提灯に照らされて、素足の白い、吾妻下駄をからころといわせながら、ほろ酔いのおくれ毛を河風になびかせ、小楊枝をかみながら高く褄を取ってくる、17才の歳よりませた、潰し島田のきかぬ気者の粋な芸者が浮いてくる。

 が、それは50年前の昔の柳橋の姿で、橋の姿も現在とは川下4、5町の違いがある。
代地河岸に近い、浅草へ架かっている柳橋に昔の面影がないと同様、伊勢喜の小浜も昔の人になってしまっている。 小浜が屋根船からあがった桟橋は、間辺河岸=浜町の方の以前の戸口邸の塀外=の矢の倉の福井楼の近くに在った時分で、もとの柳橋の時代であった。

 洗い髪の投げ島田へ新藁をかけ、黒びろうどへ銀の金員を付けた腕守りをしてあかぬけした取りなしと、芸で売る芸者は柳橋の名の誇りで、その当時小浜1人ではなかったが、小浜の気性を買って、ぜひ小浜でなくてはなぬという客も少なくはなかったその中で、勢いが末になったとはいえ、江戸は幕府の本城であるし、ことに大事の細川家の御留守居といえば、花街では下へも置かぬ御客筋であった。その御留守役の澤村高俊という人が、一も二もなく小浜を根引きしてしまった。
 諸藩の邸のあるところ、大阪でお蔵番、江戸で御留守居役といえば、通人粋工の集まりで金銀も自由に、交際も華美をつくして、軽くくずして言えば、諸藩のくだけた外交官ともいう役柄であったので、藩と取り引きのある大町人もその人たちを利用するので意を尽くしたものであったということである。
 それやこれや多くは茶屋酒に親しみがちで、名のある会席料理のことは、御留守居茶屋とまで呼んでいた慣わしさえあった。花街には大切な御華客(おとくいきゃく)で、芸者には気骨の折れる御客様であった。 その人達の中にも粋(すい)と呼ばれた人に小浜は引かされたので、仲間の羨む種になっていた。


 その小浜が箱根の塔の澤で、福住の女将「おまつさん」と言っては、押しも押されぬ西から東、東から西の関の箱根の温泉場で名物で通った女将さんになったのであった。

 そしてこの小浜は柳橋の小浜になるまでの履歴と、晩年の名物女将になってから数苛な運命をもっていた。

 東京がまだ江戸の名をつないでいたから、神田の御玉が池は名ばかりでなくて武蔵野の頃にもあったという御玉が池の姿を残していた。そのつい少し先に新銀町(しんしろがねちょう)という狭い土地があった。 天馬町の大牢に近いところで良い場所がらではなかったが、ともかくお江戸の真ん中、魚河岸にも多町にも近いし駿河町もつい目の先なので、神田っ子という鼻っばりは強かった。 そこのかなりの店のろうそく屋の娘に小浜は生まれたのであった。


 嘉永2年3月、それが後の福住の女将おまつさん、柳橋の小浜、生まれた時は商家のお嬢さんであった女の生年月で(せいねんげつ)、5歳の時が安政の大地震であったという話である。
 その大地震が家蔵へ亀裂の入った最初であったのであろう。その後、7歳と9歳の年に1年づつ中をおいて大火の災難にあったのが四散するはめになった。いたいけな娘を伊勢喜の抱え妓にはめなければならぬような家運になってしまったのであった。
 負け惜しみ好きの江戸っ子には他に名物の誇るものがないので、空っ風に火早い土地に負けず嫌いの命知らずの若い衆が、いろは四十八組の纏を振り回して火懸りにする、他国に見られぬ気負いを看板にして火事は江戸の華と豪気と威勢をつけたものであったが、その江戸の華が毎夜一つ二つとあるかげには、そうした家庭の悲劇は毎日何処かしらに起こって、新吉原に根津に新宿にと悪い人間の手にかかって連れてゆかれるのであった。 柳橋とか、堀とか、深川とか、芸者に売られるのはまだまだ芸が助ける幸運な方なのであった。

 小浜が澤村氏の為に素人になってからは御維新という世直しがあって、世の中は、まして江戸は大変動であった。そして江戸は東京となり、幕府は潰れて明治の御代になり、諸藩というものもなくなれば御留守居というような役柄もなくなり、小浜の旦那も熊本県士族沢村某で、時の政府の役員に抜擢せられ大弁同という役を熊本で任された。 それも熊本で起こった神風連の騒動の為に辞し、山形へ、伊勢へと赴任のたびごとに小浜もその地へと行ったのであった。

 花はくれない、もしも、旦那の身に病気が起こらずに小浜がそれだけの話題しかもたなかったならば、ただ美しかった花の一盛りに過ぎなかったが、柳はみどり、柳橋の小浜には後編があった。
 青々と眉毛を剃りおとした年増になってから、中年はあんまり冴えなかった。名物女の
才気と溌利とした江戸女の気迫とが、お部屋様という狭い領地から躍りだして広い世間を相手に芝居を打って見事勝をとり、塔の澤の女侠、名物女将と呼ばれて、一時は十七萬の財産といわれるまでにしあげたのを、一瞬間の夏の夢、長い一生に短いほんの昼寝の一寝入りのうらに、さしもの大家高楼も富も水に流してしまったが、それでも偉いもの、わずかの時間にまた盛り返して、当年の意気の衰えないのを萬人に示してから世を去った。

 
 もうその頃は小浜ではない。長谷川まつという実名に返っていた39歳の年のことあっ
た。官を辞めた旦那に4人の子供達を連れたまま妾宅の長火鉢の前に一日つくねんとして養われているには、少し気がいがありすぎたので、箱根七湯のうら、塔の澤といえば新しく開かれた方ではあったが、新道の道路も良し、湯本から5町ばかりのだらだら登りで宮の下に行く客を喰い止めさえすれば有望な土地だと睨んだのであった。 そして塔の澤千歳が丘の、玉の緒橋の上流、最も渓流に突き出した、道路よりはやや低い土地にあるが、瀧の見える〜現今大倉氏の別荘にある隣地〜所に福住様を開業したのは、明治23年のことであった。

 昔、朱舜水が水戸公につれられて箱根の温泉に遊んだ時、唐土(もろこし)の驪山(りざん)にも勝ると言ったので、勝驪山(しょうりざん)と呼んでいるのは、丁度女将の福住様へ行く入り口のように、大倉邸の角にそびえている大岩の在る辺りをさしていったものだそうであった。 女将の福住桜は、塔の澤のはずれにはなっていたが、塔の澤七分の客は福住の客と言ってよいほど全盛をつくしていたものであった。 そしてそれは、別に何の客寄せの秘策があるものでもなく、女将1人の手腕で65歳の末年まで続いたのであった。
 けれども、全盛な時こそ他人はおくびにも出さなかったが、以前の〜水に流した〜福住様はその前にも二度出水の難に会った所だと言うことであった。青柳という温泉宿が流された時に女が1人見えなくなった。それで福住の湯殿には、夜中になると女の後姿が見えたものだと、後になってから言いふらしたりした。 そんな話を知らないでか、とにかく女将が引き受けた時分にも店はさびれきっていたのであった。
 
 箱根の土地で一、二の元家で家柄である湯本の福住の分家が経営していたのではあったが、何分にも夏の一期を過ごしてしまうと、後は一年の三分は遊んで暮らさねばならないのがその時分の箱根の湯治場のありさまであって、現在のように土曜から日曜へかけたり夏期の外には、山桜の散るこうから河鹿の音を聞き、五月雨の晴間には渓流を蛍が飛ぶ、さては青葉の頃も良し、紅葉はことさら箱根八里の登り下り、時雨でも降りかがれば笠も袖も色に染むばかりと、四季の風景を勝するものがなかったころである。 

 さびれかけた福住を引き受けて広い家に唯一人、土地に馴染もなかった女将は、勢い多く知った顔の客を呼ばなければ、寂しい山中に辛抱が出来ないと思った。出来ないといって此のまま帰ることは尚更出来ない。 ことにこの眺め、この雨後の紅葉を1人温泉にひたりながら眺めて散らしてしまうのは、いかにも惜しい、もったいないと思いついて、それからが塔の澤の紅葉狂と言われるまで、天下に箱根の紅葉の美を説き回って、秋の客も呼ぶようになり、ひいては平日も東京、横浜の客筋につけこみでなければと言わせるほどの繁盛をみせたのであった。
 

 それには女将の相談相手に大今さんという内芸者があった。かなりな年齢で女将より年上であったかもしれないが、吉原の芸者で関(せき)三十郎という俳優の女房になって、有名な怪談・・・天の遺骨を背負って東海道を下ってくる道すがら、何処の宿でも夫婦連れと見たという物語の女主(あるじ)..の昔ならした女であった。
 その外にも女将はよく行き届いたので、女中もただの温泉宿の女中ではなかった。そのうえ女将自身が客をとりもって、御酒の相手もすれば、座興には扇をとって立つといったようであったので、福住は温泉宿の歓楽境であった。
 女将が塔福の女将、塔の澤の女豪で通るような名物女になる26、7年間の消息には血も涙もあったであろう。 が、私の知っている女将の面影は、晩年、それも悲惨を尽くした後を、より多く知っている。

 明治43年8月の箱根増水は未曾有のことと言われている。わけて塔の澤の災害を受けたことは一通りではなかった。 その当時塔の澤に宿していた人達は、貴紳も老若もないみんな命からがら逃れたといってよいのであった。 いち速く洋服に着替えて子供を背って逃げられた鵜澤博士は、その後でも当時の光景を語るたびことに、漢詩にもあの形容はない、支邦の水は濁々と押し寄せてくるのだろう、まして西洋には尚更あるまい。 あれは日本の山地に住む人間でなければ、いかに語ってもあの有様は言い表わせないと言われている。

 水の出たとなると、千里一足の勢いで大岩を転ばしと言いたいが、大石を押し流してゆき、その岩に触れた岸は山の根といわず、住家といわず、なぎ倒しさらっていってしまうのである。 そうした勢いの水にさらわれて、さしもの高楼大原(こうううたいか)もアッという闇にさらわれていってしまったのであった。女将の二十幾年奮闘のあとも、栄華の夢もほんの一瞬の闇に押し流されてしまった。 その時、剛腹な女将は何もかも忘れて湯上がりの一杯機嫌に、増水しそうだという報告も知っていたのであったが、昼寝に暫しの休養をとっていた。 油断がもとといえばそれまでであろうけれど、ほんの暫しのまどろみの隙をうかがって、盛りの時には寄りつかなかった禍が暴威をふるったのであろう。 女中に引き起こされて部屋の外へ出るか出ぬ間に女将の福住は全家押し流されてしまった。

 
 夢に夢みた心地、女将は気が狂ったと噂されたのも尤もではあるまいか。17萬円といわれた財産も、二十幾年の自分の歴史のあともすっかりと流されてしまった。 その上、長年の馴染みの客〜川尻氏〜夫妻を離れ家と共に見えぬ影にしてしまった。
 山の中腹を高く、濁浪の上にのって1畳の青畳のうえに緋鍼(ひおとし)の鎧が乗ったまま流れてゆくのを私の父は目撃した。 それが福住の所有品の流れたのを見たたった1人の人であった。その後、小田原の海近くの網代村で政宗の刀だけが発見されただけであった。 流された夫妻の客は、これも海近くで見い出されて、山から押し流されてきた大岩の上で火葬にして東京へ帰ってから二つ並んだ本葬が営まれたりした。

 いたましい出来事、それが栄華の跡の晩年におとずれてきたのであった。 そういう悲しみを見聞きして、どうして失心せずにいられよう。1枚着たきりの浴衣で流れてしまって河原になっている家の跡へ竹矢来をした中で、別れの盃をして、女将はその地をあとにして東京の控家へと落ち着いた。 けれど、そのままにはどうしても過ごされなかった。も一旗あげないでは死んでも死にきれないと、そればかりを口にしていた。 そして女将の気質を知っている者は、十円の札をくづしてちびちびと遣ってゆくことは、とてもおまつさんには出来まいと言っていた。 それで女将も決心をしたが、その決心は痛ましいものであったに違いない。

 塔の澤には、以前の福住よりも一つ橋手前に、新たに福住楼の出来たのを誰も知っていよう。 玉の湯といった店で福住が盛んなこうに、−の湯と共同して買っておいた家であったものをようやく1人のものにして、女将はありし昔を再び夢むぺく経営を始めたのであった。 それは43年の12月の31日、大晦日の日であった。その為には、女将の残しておいた何もかもが経営の費用に遣い尽くされたことは吾うまでもなかった。

 
 その夜遅く女将は私の家に尋ねてきた。それはその前出立の時、お酒と鮮魚を餞別(はなむけ)て女将が別れの宴の代の足しにしたのを喜んで、それを忘れずに尋ねて来てくれたのであった。 丁度その時、私の家には女将から頼まれて預かった女中と男衆とがいた。 土地の者でない、東京者なのというのと、同姓だというので私の母と話はあっていたが、折り悪しく母はその時分居なかった。 けれど女将は心地よく飲んでくれて、そして女中と一緒に溜め涙を流した。お母さんの手をとって大泣きに泣かせてもらおうと思っていたと言って泣いた。 年の暮れの町を火鉢を買い集めてきたということや、こんな柘植(つげ)の歴櫛(ぴんぐし)をさして来たといっては泣きながら飲んだ。 そして土地の老妓の古琴をよばせて、いたましい酔の後に「槍錆び」を踊った。
 槍は錆びても名は錆び… ‥ぬと、古琴が悲しい面持ちをして寂しい声にうたった時、三河屋団蔵張りの、あの色白な、光るほどな引っばれ顔な、眉あとの青い、きれの長い眼が凄いように光っていた。 私の眼には扇の手もわからないほど涙がせきあげてきた。
 この踊りは、京都井上流の名人八千代、井上八千代というより片山春子という方が通っている一代の名人が福住へ泊まりあわせたとき、この女将にうつしていった小舞である。
 この女将が直伝を受けたゆえに、東京の花街で知らぬは恥のようになって、茶屋酒にしたしむほどの人は、きっと唄うようになったものである。 それを、失意の人になって、当年の繁盛を取り返そうとする女が泣きながら踊っている。 弾いて唄うものも涙なら、見る者はあやもわかぬほどに袖を濡らしてその女の為に泣いていた。

 けれど、明くる春の新しい福住様の客足は素晴しいものであった。女将に何もかも苦を忘れさせようとする贔屓(ひいき)がつとめて女将の気を引き立てさせた。 そして見事に盛り返へさせたその年には7日にあまる開店開きの招待をして、女将の老いにめげぬ手腕を示したものであった。

 
 その時、土地の狭い量見から、土地の芸者と小田原芸者とのいきさつがあって、老妓の古琴が舌を喰い切りかけたことなどがあったが、女将はこの時に、そんな事をしでかさなくてもと、言えば尽きない怨吾も一言も言わずに、自身も若い手古舞(てこまい)姿になって、昔の柳橋の小浜を偲ばせるキャリの音頭をとっていた。
 私が呼ばれていった折りには、小紋の着物に黒じゆすの帯、紫の病鉢巻(やまいはちまき)だけ本式にして、薄化粧に引き眉毛、「保名の狂乱」を踊っていた。祝わねばならぬ、開業の芽出たい日だと知りながら、何故か私にはそれが凄惨で見ているに耐えられなかった。

 
 同業であった私の家は、それからすこししてやめるめることになった。私の母が挨拶の為にちょっと来て、女将を訪ねたときには、もう喉頭癌にかかっていて声が出なかった。引き上げて帰ると言ったときに、涙をいっぱい溜めて母の手をとり、「羨ましい、私のここへ帰って来たのは意地だ」と、聞こえぬほどの声で言ったそうであった。

 大正3年12月14日、芝の高輪病院で病死した。名物女の65年の生涯も、長いようで短く、短いようで長かったに遭いないが、一切空、ほろ酔いで踊っていた瞬間が一番楽しかっただろうと私は思っている。


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